『謝るなら、いつでもおいで』、川名壮志、新潮文庫

16年前の今日、長崎県佐世保市の小学校で凄惨な事件が起きました。『佐世保小6女児同級生殺害事件』・・・11歳の女の子が、同級生の12歳の女の子の首をカッターナイフで切りつけて殺害した事件です。2004年当時、僕は大学4年生で東京に下宿していて、インターネットだったかテレビのニュース速報でその事件を知りました。

幸か不幸か、1997年に神戸市須磨区で起きた『神戸児童連続殺傷事件』のおかげで、少年ですら猟奇的にヒトを殺しうるのだと思っていたので、佐世保の事件を聞いてもあぁまたかと感じていました。その時の僕は、いわゆる「世間」であり事件の傍観者でした。

時がたち、自分が子を持つ一介の親になりうる年齢に達し、周りも似たような家庭を持つ環境になってくると、幼い子を襲う事故や事件そして病には敏感に反応してしまいます。つまり、傍観者ではいられなくなったということ。

この本は、『佐世保小6女児同級生殺害事件』のルポルタージュです。著者は、新聞記者であり被害者の父(毎日新聞佐世保支局長)の部下でした。被害者の女の子とも顔見知りどころか家族のような間柄だったといいます。本の中では、事件のあらましを淡々と綴るというより、新聞記者の顔と被害者の家族のような顔を行ったり来たりしながら、それでも生業として報道に携わる人間の有り様がひしひしと伝わってきます。

あたりまえの日常があたりまえでなくなる瞬間・・・遠い世界の出来事ではなく、誰しも直面する可能性がある問題です。交通事故かもしれない、事件に巻き込まれるかもしれない、突発性の病気かもしれない、そして自殺。僕自身もそうだし家族だってもちろん、それらと無関係な人間などいないということです。被害者になるのか加害者になるのか、そのどちらもまだ決まっていないということもまた忘れてはならない真実です。

僕は、少年法の厳罰化は必要だと思っているし、死刑制度はあってしかるべきという立場です。でも、佐世保の事件のように、法律では裁くことのできない場合は自分ならばどうするだろうかと思いました。想像はしてみるけれど、現実はおそらくそんな想像など軽く超えてくるに違いありません。

2004年の事件当時、小学6年だった子どもたちは気づけばもう27,28歳の年齢です。被害者の子の時は12歳のままで止まったままですが、彼女のお父さんやお兄ちゃん、そして加害者の子にも平等に16年の歳月が流れました。それぞれ、何を想いどのように生きているのか・・・詮索は無用ですが、加害者が被害者とその親御さんたちに、せめて無事に謝れたならと思います。

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